福山山岳会の歩み

1918(大正7年) 藤井与一衛門氏らが「福山実業体育会」を創立、同11月 「福山体育 会」 と改称。

1919(大正8年)2月23日、中木正雄氏ら、13名が「熊ケ峰」に登山した。 (第1回山行)

1920(大正9年)「福山体育会山岳部」と改称。

1927(昭和7)山岳部の基盤が固まりつつあると同時に本格的登山指向も高まり、福山、備後周辺から日本アルプス等、登山域も拡大の一途を辿る。

1941(昭和16)12月、太平洋戦争勃発、軍国主義の国策から、耐久訓練に変貌し行く。

1945(昭和20)
福山市は空襲を受け、市街地の大部分が消失。

1951(昭和26)福山市体育協会に加盟。

1952(昭和27)5月、「福山体育会山岳部部報第一号(800回記念号)を発刊現在の機関誌「はいまつ」の原形が出来る。

1957(昭和32)4月20日「福山山岳会」に改称この頃、すでに山行回数は年間50を数えように成った。

1958(昭和33)2月23日、発祥登山(1919大正8年)を偲び第一回草創記念祝賀会を蔵王山で挙行、以来「草創記念登山」は、「福山山岳会」、毎年の恒例行事と成り、現在も続いている。

1959(昭和34)2月5月3日、1200回登山祝賀行事を本谷で挙行、毎月の第二木曜日「山の集い」を開催、会員相互の研修の場を設ける。

1965(昭和40)4月、広島県山岳連盟に加入、以来広島県登山体育大会への参加は恒例行事化した。

1969(昭和44)
草創50周年記念、福山市民会館に日本山岳会会長、槙有恒氏を招き「登山と人生」の講演、映画会を開催、聴衆に深い感銘を与えた。

1972(昭和47)第2代会長、山田宗吉氏が第14回全日本登山体育大会に於いて日本山岳協会より、「登山功労賞」を受賞。

1977(昭和51)2000回登山達成記念祝賀行事を蔵王山で開催、当時の会員名簿には立花鶴雄会長始め、130名が記載されている。

1979(昭和54)会として初の海外登山を実行、韓国浦項山岳会との親善交流登山で浦項市近くの香炉峰(970M)に登り後日来日した浦項山岳会のメンバー15人を富士山に案内した。

1993(平成3)5月3000回登山達成記念祝賀行事として、友好諸団体を招待沼南アルプス臼木山に登山、往事の快挙を偲んだ、又、「写真展」を天満屋で開催小土井薫計会長の労作「福山山岳会沿革」「福山山岳会3000回の歩み」が刊行された、しかし同年12月、大山天狗沢で会員3名、会友1名が遭難、県岳連、協力団体の援助を受け捜索したが翌1月3日、遺体を収容した。


1999(平成11)2月28日、創立80周年記念祝賀会を「熊ガ峰」で盛大に開催記念事業として、「写真展」を天満屋で開催、「コースガイド80」を刊行、会長は萩原有朋氏。

当時の会員数、371名、山行記録は3423回。

現在(2001平成13年5月)
山行記録は、3575回に達する。


草創記念登山に付いて

1919(大正8年)2月23日、当時既に日本山岳会会員だった、中木正雄氏の熱意で、藤井福山体育会会長始め13名が福山城を出発、沼隈半島、熊ケ峰を目指し、二手に分かれ、一隊は、ウサギ狩り、一

隊は峰伝いに薬師の峠から鞆町へ出た、(このコースはその後、沼南アルプスと呼ばれる)当日、獲物のウサギとガンに肉を加え意気軒昂、是を機に登山部創設の機運が盛り上がり「福山体育会」は会則を改め「登山部」を新設した。

広島県内で最も古い山岳団体「福山山岳会」誕生のルーツである。